物部氏とニギハヤヒ

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延暦二十三年(八〇四)八月、桓武天皇は平安京遷都にともない、石上神宮(奈良県天理市)の大量の兵仗(武器、儀仗)を、山城国葛野郡(京都市の一部)に移そうと目論んだ。動員された人数は、のべ十五万七千余人にのぼった。ところが、数々の異変が起き、桓武天皇も体調を壊したため、祟りを恐れ、兵仗をことごとく元に戻したという(『日本後紀』)。  石上神宮は古代最大の豪族・物部氏と関わりの深い神社だ。ヤマト建国時から活躍した物部氏だったが、藤原氏の台頭によって没落した。しかし、その権威と神通力は、なかなか消えなかったようだ。その象徴が、石上神宮である。  桓武天皇が、自身の不予に「これは祟り」と信じたのは、後ろめたい気持ちがあったからだろう。桓武天皇は政敵だらけのヤマト(大和国)を捨てたのだが、石上神宮から兵仗を略奪することが、罪深いこととわかっていたのだろう。ただの兵器や武器ではない。ヤマトの神宝でもあるからだ。  さらに、物部氏がヤマト王権の神祇祭祀に深くかかわっていたこと、古代を代表する霊威を供えていたことも知っていたにちがいない。  本文で触れるように、物部氏は前方後円墳の原型を築き上げ、古墳時代をリードした代表的豪族だ。ヤマトの祭祀様式の成立にも大いに寄与し、神祇祭祀の中心に立っていたと言っても過言ではない。  物部氏は神に近い一族でもあった。物部氏の「物」は、モノノケ(物の怪)の「物」であり、「物」は古くは「鬼」を意味した。物部氏はヤマトを代表する鬼の一族でもある。  物部氏の祖はニギハヤヒ(饒速日命)で、ヤマト黎明期の王でもあった。神武天皇に王権を禅譲したあとも、神祇祭祀の中心に立ち、実権を手放すことはなかったのだ。ニギハヤヒの末裔の物部氏は古墳時代を通じて日本各地に進出し、大地主に成長していった。『新撰姓氏録』には、京・畿内の諸氏の系譜一一八二氏を掲げているが、その約十分の一が物部(石上)氏の同系氏族だ。  このように、物部氏は長い間ヤマトの中心勢力の地位を保ち続けたのだった。  七世紀末から八世紀にかけて独裁志向の藤原氏が台頭し、多くの古代豪族が没落していく中、石上(物部)麻呂は左大臣に登りつめ、最後の物部系大物宰相として光り輝いた。ところが、平城京遷都(七一〇)に際し、右大臣(左大臣に次ぐ地位)藤原不比等の陰謀にはまって、旧都新益京(藤原宮)の留守居役に指名され、捨てられた。  完成したばかりの律令制度(明文法と土地制度)を悪用してのし上がった藤原氏は、桓武天皇を担ぎ上げ、都を山背(山城。長岡京と平安京)に遷した。律令土地制度の欠陥を放置した藤原氏は、各地の土地を我が物にして、日本の土地と民を私物化した。優雅なイメージの強い平安時代とは、藤原氏だけが栄えるいびつな社会であり、人びとは古き良きヤマトの時代を懐かしんだ。その「輝かしい時代の最後の為政者」が石上(物部)麻呂であり、ヤマトの象徴的な宝器が、石上神宮の兵仗でもあった。  桓武天皇や平安京の藤原氏が、石上神宮の神宝の祟りに震え上がった理由がここにある。物部氏の衰退こそ、ヤマトの終焉であり、「いじめ抜いた政敵やヤマトの民の恨み」が、神宝に宿っていると信じたのだろう。  物部氏の滅亡と同時に、日本人にとって大切な時代が終わってしまったのだ。物部氏はヤマトそのものである。その正体と歴史を明らかにしてみたい。

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